数年前、ある夫婦が訴訟を起こした。近くの川で息子が溺れ死んだのは、市が堤防に柵を作らなかった為だというのである。行政に責任を求める、この種の裁判は最近よく聞くようになった。
もうひとつ、一時マスコミが連日大きく報道した神戸の女子高校生の校門圧死事件である。女子高校生が校門に挟まれて圧死する痛ましい出来事だったので、記憶されている方も多いと思う。識者やマスコミの報道は、殆ど服装とか、髪の型など細かく規定している管理教育の弊害だと、異口同音に学校教育を責めることに終始していた。
さて、これらの事件で共通して議論されなかったことは、当時者本人達の危機意識のなさである。川で溺れた子供の両親は、日頃から川や海の傍がいかに危険であるか、教えていただろうか?子供達と一緒の時、自然といかに接するか教えていたのだろうか?この両親は、子供の安全のために、すべての川や海の堤防に、ギリシャ神話に出てくる父親のごとく、フェンスを張り巡らせというのだろうか?
また神戸の女子高生は、迫ってくる鋼鉄製の門の危険性に気付かなかったのだろうか?通り抜けられると判断したのだろうか?いずれにせよ、立ち止まって冷静に、周囲を見る沈着さが欲しかった。
巷間では、駅のプラットフォームの白線の外側で喋る若者達や、車間を通り抜けるバイク、車間距離のない程に近寄ってくる車など、一歩間違えば惨事になるのではと思うことが多い。
これは、自分の危険をあきらかに他人に委ねている姿である。法律尊守を説いているのではない。自分の安全は自分の責任で確保する、法律以前の当たり前の意識が社会全体にないことを指摘したいのである。おまけに事件が起きると、自らの責任は全く問うことなく、他人を責める風潮が蔓延している。昨今では、当たり前と思っている様子である。お陰で、交通事故は減らず、池や空き地の周りは無粋なフェンスで囲まれている。プラットホームや列車の中そして公共の建物の中は「親切な警告」で騒がしい。
自分の安全は、自分で護る。自分の出来ることは、自分でする。自分の安全が護れなくて、他人の安全など護れるはずがない。この「自立心」つまり、危険を予知し個体本能を維持する知恵と他人に迷わされず自分で考える気概が、日本社会に失われていくようで心配である。
特に若い世代になるほど、著しいと思うのは、私だけであろうか?この能力は、幼い時代から家庭で躾を始めないと、身に迫る危険を回避できないし、自信で考える習慣も育たない。そもそも勉学やスポーツの本来の意義は「自立心」の養成と個体維持本能を鍛錬することなのである。どうも日本の社会全体が、このことを忘れてしまっている。
経済界は不況になると、すぐ政府に公共事業の前倒しを要請する。建設業界と行政の間の贈収賄事件は、日常茶飯事である。十年ほど前までは、人々は「生活保護」を受けることを潔良しとしなかった様に思う。今は私の診療所にも五体満足の男が「生保」の保険証を持ってくる時代になった。
そして、いつも日本人をやめたい気分にさせてくれるのが外務省である。国際的事件が起きると、まず自分から行動することはない。そして、記者会見で恥ずかしげもなく「他の国の出方をみて、我国の行動を慎重に見極めたい」というのが常である。何のポリシーも「誇り」もない。現在問題になっている野村証券第一勧銀事件も病根は同じである。本当の「自立心」がないのである。
最近、アジアの経済の成長や長引く不況を見て、「日本衰退論」が囁かれるようになった。しかし、衰退論を云々する前に、我々は明治時代の人々の心意気に思いを馳せるべきである。長岡半太郎、野口英世、北里柴三郎、南方熊楠etcを見よ!
我々は、先輩達が築いてきた環境に甘えているだけでないか。
日本再生の鍵は、「自立」ということを理解し、実行することではなかろうか?そして我々医療界も同様ではないかと思う。如何か?
(1997年7月10日発行 長崎保険医新聞 掲載)
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