昨年、瀬島龍三氏がなくなった。彼は陸軍士官学校を首席で卒業、軍の最優秀の人材を集めた参謀本部作戦課で、若くして第二次大戦の日本軍の作戦立案にあたった。終戦間近に、満州(中国)で関東軍参謀として勤務していたところをソ連に捕らえられる。11年間の抑留生活の後、帰国したが、敗戦後の商社ビジネスや行革に参加して脚光を浴びた。
氏の逝去後、三ヶ月して小生の親戚で陸士出身のAが亡くなった。当時、彼は親戚中の自慢であったらしい。彼も満州で、特務機関を指揮した。瀬島氏とはおそらく顔馴染みに違いない。戦後は翻訳などの仕事をしていたらしいがよく分からない。
二人に共通しているのは、戦争中の自慢話はするが、なぜ戦争を起こしたのか、軍の幣を伝えて後世に同じ失敗を繰り返さないように、示唆する姿勢がまったくないことである。
小生が歯学生のとき、Aと酒を飲んだことがあった。その席で、生意気盛りの小生は、Aに「戦争責任論」について質した。Aは気色ばみ「劣等生のくせに、大きなこと言うな。東大に入ってから出直してこい!」と鋭い目で睨みつけられてしまった。心臓が縮むほどの迫力があって、正直肝が冷えた。それ以来、Aに会ったことはない。
Aの口癖は「今に見ろ、財閥を作ってやる!」。挙句の果ては「俺は、仕事を通してまだアメリカと戦っているのだ!」などと意気軒昂なのであった。
戦後の生き方が、小生が尊敬してやまない井上茂美海軍大将と正反対の二人に対して、「敗軍の将、兵を語らず!!」 「一将功なりて、万骨枯る!!」の言葉を送りたい。
太平洋戦争の戦死者の半数以上が餓死者であり、その原因は兵站を無視した無謀な作戦だと言われている。
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さて、最近読んだ本、『間に合わなかった兵器』─徳田八郎衛著で、永年の疑問が氷解した。本の趣旨は「多くの人は、『日本は米国に物量で負けたのであり、技術では負けなかった』と思っている。しかし、兵器の質や技術力の格差が目を覆いたくなるほど大きいことや、技術力を持つ意義や、それを使う戦略眼を持った指導者は少なかった。戦う前からすでに負けていた」というのである。
そういえば、もう何年も前、あるテレビでノモンハン事件を特集していた。その中でソ連軍と一緒に戦ったモンゴル兵が「日本兵は勇敢だった。しかし機関銃や速射砲から弾が出ないことが多く、それで俺は助かった。日本兵はかわいそうだった」と話しているのである。
なぜなのかよく分からず、心の中に引っ掛かっていた。しかし、この本の中で著者は「製品の緒元、性能の許容限界の低下は、資源節約と大量生産の見地から、弾薬だけでなくあらゆる兵器に及び、均一であるべき小銃の部品さえも小銃ごとに寸法が異なり、互換性を失っていた」と指摘している。つまり、当時の日本の工業力や技術力は相当に低かったのである。これで納得できた。
そしてもうひとつ。なぜ日本には対戦車兵器(米国のバズーカ砲や、ドイツ軍のパンツアーシュレック)がなかったのだろう?
戦車イメージ日本の将兵には、アンパンと呼ばれる対戦車地雷や火炎瓶を、戦車に肉薄して投げ込むかぐらいしかなかったのである。このため太平洋戦争のあらゆる戦場で、凄惨な、悲惨な光景が繰り返された。
だが、開戦して暫くすると、ドイツ側から歩兵携帯の対戦車兵器「パンツアーシュレック」の設計図がもたらされていたのである。作ろうと思えば、作れたはずであった。
著者は「戦いの最後は白兵戦であり、死も恐れない日本兵が負けるはずがない」との、軍首脳部らの思い込みが開発を遅らせたと指摘している。これでは、近代戦に対する認識がなかったと言われても仕方がない。
もう、太平洋戦争が終わって六十余年経つ。いったい我々日本人は、この戦争から何を学んだのだろう?
せっかく多大な犠牲を払って、手に入れた宝物の日本国憲法九条も、改正の動きがある。また、何より優秀な人物を集めた日本軍の参謀組織も、軍内部の派閥抗争に明け暮れ、日本を滅亡の淵に立たせてしまった。この日本軍の罪科も十分反省・研究されることなく、防衛庁は防衛省に格上げになった。そして、不祥事続きである。
「これからの日本は、責任体制を明確にした国民のための行政組織を再構築しないと将来はない」と、今年還暦を迎えるおじさんは、しみじみ思うのだ。
人間は有名大学出身で決まらへんぞ!
(2008年4月10日発行 長崎保険医新聞 掲載)
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