オッピー(アメリカンプロメテウス)原爆開発科学者の悲哀と現実
もう50年近くになるだろうか、小学生低学年の頃の私の楽しみは、祖父に長崎に連れって行ってもらうことだった。 その時、いつも心に残っている風景がある。
一つは、中央橋に傷痍軍人がアコウディオンを持ち、軍歌を弾きながら物乞いしている光景と、もう一つは原爆によるケロイドをもった顔の人や髪の毛が抜けた女性がよく浜の町を歩いていた光景である。
親や親類から戦争の悲惨さや原爆の地獄絵の惨状を聞いていたから、いつも見るたびに子供心にかわいそうだと思っていた。だから、私は戦後生まれではあるけれど、戦争や核にはアレルギーがあるのだ。
私ども長崎県民は原爆のむごさは、たとえ経験はしなくとも教育や周囲の環境から骨身にしみている。また、原爆投下のパイロットの話も聞いたことがある。
だが、原爆開発者がどんな思いで原爆を作ったのか、その必然性が在ったのか、そして投下後どう良心に向かい合ったのか聞いたことがなかった。寡聞にして知らなかった。
相手の男性が着けるシーンやファッションを想定して選ぶ
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オッペンハイマー(上・下)最近PHPから出版されたカイ・バード、マーティン・シャーウィン共著(河邊俊彦訳)「オッペンハイマー」は、これら疑問を一掃するほどの好著である。訳もなかなか良い。
著者等は25年にわたり、丹念にこの原爆を創った天才科学者の足跡を追うとともに、狂気の核武装大国になったアメリカの源流を描いて見せている。
なかでも、一番心に残ったことは、原爆開発に集められた科学者達157人中2人を除いて、全員が日本への無条件の原爆投下を反対して嘆願書をだしていることである。印象に残った内容を、少し紹介したい。
ロバート・オッペンハイマーは、1904年貿易商の父と芸術家の母の間に裕福な家庭に生まれる。
幼少からの彼の天才ぶりや、文学や絵画に造詣が深く、詩を作ったりと多趣味の人物像など字数の関係で割愛するが、彼の基本的な考えはユダヤ教の分派である「倫理文化協会 」の学校で培われた。
彼は人生をとうして、何が一番大事か考えながら行動しているように思う。
原爆に関して係わり合いができたのは、一編の新聞記事からであった。
1939年1月29日のサンフランシスコの新聞に、ドイツの科学者が「ウラン核は2個以上に分裂が可能である」との証明に成功したとの記事が載ったのである。
米国の物理学者達は、パニックに陥った。なぜなら、この記事から、10センチのウラン核が生き地獄ような爆発力を持つだろう事が容易に想像できるからであった。
ナチスの支配するドイツが先に原爆をつくるか?米国か?熾烈な核爆弾開発競争が始まるのである。
米国の開発責任者に選ばれたのは、オッペンハイマーであり、ドイツはW.ハイゼンバーグであった。ともに、天才の誉れが高く、当時理論物理学の中心地とされたゲッチンゲン大学で研究した間柄だった。
ナチを嫌っていたオッペンハイマーは、必死になって開発研究に取り組む。しかし、責任者に推薦された時も、彼が開発拠点のロスアラモスの所長であった時も、F.B.I.に盗聴されたり尾行がついている。彼は、道義的にスペイン内戦の共和国軍側を支持し、また妻キティの前の夫も共和国軍に参加して戦死していたからであった。
さて何とか、開発の目安がついた時、ドイツは敗戦になっていた。
この時、ロスアラモスの研究者達は真剣になって、我々は今悪いことをしているのではないか?ナチが滅びた今、爆弾をどうするべきなのか討議している。
すでに開発に入る前、デンマークのノーベル物理学者ニールス・ボーアは、核兵器は国際管理をするべきで、独占するとソ連との間で軍拡競争を引き起こすと警告していた。オッペンハイマーもこの考えに同意している。
しかし、当時の大統領トルーマンや高官たち、そして軍首脳は、このような考えを無視して、原爆を独占し、実際に使用してソ連に米軍の優位を思い知らせようとしたのだった。
原爆使用の米国側の言い分として、使用しなかったら米軍の死者が増えていたとよく聞くが、全く根拠がないことが分かる。高官たちは、日本の敗北の日時とソ連参戦を承知していて、投下日を決定している。
投下後、核兵器の開発者として、彼の後悔と苦悩が始まる。また、核兵器の国際管理の必要性や軍備拡大競争の危険性などを政府に説得し、法案化も試みるが、ことごとく反対派や軍関係者に潰されている。
そして彼の人生の中で最大の災難が訪れる。米国とソ連との軋轢が広がる中、原爆機密資料が同僚の科学者からソ連に持ち出されたことや、水爆開発に反対したことで、1954年4月聴聞会にかけられたのである。折りしも、周囲はマッカーシイ旋風が吹き荒れていた。
オッペンハイマーは、この聴聞会で、FBIと軍や保守派のバックのあるルイス・ストロークと言う財界のたたき上げの男と死闘を演じ敗北する。そして保安処分を受け、政府関係の仕事や情報から排斥されるのである。この事件以後、科学者は容易に政府批判が出来なくなった。
一方米国政府は、核兵器の製造に血道を上げるのである。はじめは3個の原爆が、今や7206個の原水爆弾もつ核大国になってしまったのだった。
さて我々人類は、地球温暖化の環境激変の中いると、巷間で言われている。
しかし、現実は核戦争の恐怖の上に暮らしているだけであり、ボーアやオッペンハイマーが警告したように核拡散が徐々に進行している。今や、パキスタンから核爆弾がテロリストに渡るのではないかと言う懸念が、現実味を帯びている。環境問題も大事なことだが、核軍縮は焦眉の急である。
オバマ大統領は[核のない世界]を目指すとして、当選した。果たして米国は、核軍縮を進めていくか注目したい。日本もまた、積極的に貢献しなければならない。麻生さん!!アニメやゲームだけが世界に発信するもんじゃなかろうが!!
(2009年5月 保険医新聞に要約版を記載)
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