今から二十年程前のことだ。ちょうど大学病院を退職して父親の歯科医院を継いだ頃だった。
ある昼下がりに、ニコニコしながら話しかけてくる老人に出会った。頭の真中が禿げて、残り少ない頭髪と顎髭が白くなっていた。顔は見覚えがあるような、ないような方である。さっぱり心当たりがない。色々話しかけてくるのだが、相手が分からないから、生返事ばかりであった。
それから数日してその老人が、H内科の院長先生と分かった。H先生には、小学校時代に度々お世話になっていたが、その後お会いしたことはなかった。先生には大変失礼なことをしたのだが、それよりも「老い」が人をこんなにも変えるものかと、正直言ってショックだった。
私が内科に通院していた頃、先生は五十代前半であった。黒髪がフサフサしており、溌剌とした中に医者らしい凛とした雰囲気がある先生だった。その老人がH先生と聞いて、浦島太郎が玉手箱を開けた時のような感慨に襲われた。
そういえば自分自身が年を取るに従って、久しく会っていない親戚や友人にたまたま会うと、あまりの変わりように驚くことが稀ではなくなった。それもそのはず、私も今年で五十歳となるのである。しかし頭で自分自身が中年の後半に突入したと分かっていても、心の隅では「後十年もしたら、老人と呼ばれる・・・」なんて信じていないのである。そしてその日暮らしで日常に追われ、右往左往して、時は過ぎ行きているのである。このままでは酔生夢死の人生になりそうだけれど、厄年から十年経つ今、「中年」を考えてみたい。
「老い」に向かっている「中年」と、それまでの人生とは、どこが違うのだろうか?間違いなく厄年を過ぎると、肉体が老化を起こしていることを自覚せざるを得なくなる。
ある朝、起きると新聞がメガネを外さないと読めなくなっていた。疲れがなかなか回復しない。どうも仕事に対しても粘りがなくなってきた。よく先輩諸氏がこぼしていたことが我が身に降りかかってきたのだ。また精神的にも、日常の些事に構わなくなってきた。若い時見向きもしなかった野の花も美しいと思うようになった。花鳥風月に興味を覚えるようになってきた。
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さて、画家のゴーギャンも、中年になると成功していた株の仲買を止め、金も名誉も、家族も捨てて画家になる為タヒチに渡った。種田山頭火も同じ様に、すべてを捨て放浪の旅に出た。そして、酒と俳句を友とした。『中年とは、魅力に満ちた時期である。それは強烈な二律背反によって支えられているように思う。・・・これほど安定して見えながら、内面に一触即発の危機をかかえてる時期はない』河合隼雄著(中年クライシス)。周りを見渡せば、中年で人生を百八十度変える人は、珍しくない。出家する人、失踪する人、路上生活者になる人・・・。
ところで、C・G・ユングは、中年に光を当てたスイスの精神分析医である。彼の診療所に来院する患者さんは、中年以後の人が多いと述べている。そして、その三分の一は裕福な人が多かった。つまり、彼らは「何かが自分の人生に足りない」「不可解な不安」などの悩みを抱えていた。ユングはこのような患者を診察しながら、また自信の神経症を経験して「中年」を分析している。『中年とは、人にとって人生の転換点の時期である。言わば、午後十二時であって、人生は前半(午前)と後半(午後)に分けられる』(無意識の心理)。
つまり、人生の前半は、思春期に自立して、成人期に一生の仕事と伴侶を得て、それなりに社会的地位を得る時期である。後半は自分を見つめ直し「自分はどこから来て、どこへ行くのか?」と根源的な問いかけを自身に行い、来るべき「死」に対して準備をする時期とユングは考えた。言い方を変えれば、前半は人としての生物学的役割を果たし、後半の中年以後は、人生の充実感を得るために精神的あるいは霊的な役割を捜すという訳である。
ユングは最後に人は自分自身の人生の意義を省察すれば、日没と考えられた中年以後の状況も逆説的に日が昇る「創造の時期」に変えることが出来ると述べている。だからこそ、この中年に人々は肉体的にも、精神的にも苦しむのである。『老化とは成長である』、『いかに生きるべきかを学びなさい。そうすれば、いかに死ぬべきかが分かるでしょう。いかに死ぬべきかを学びなさい。そうすれば、いかに生きるべきかわかるでしょう』モリス・シュワルツ著(モリー先生の最終講義)。そして、その苦悩が大きい程、後半も充実した人生になるのだろう。つまり中年は真に人間として大きくなる時期なのである。
これらの私の人生も、「老い」や「死」に目を逸らすのではなく、正面から向かい合いたい。人生にも深みを増すような生活を心がけたい。男の顔は領収書、女の顔は請求書などと揶揄されない年輪を顔に刻みたい。
ドウダ、茶髪ノ兄チャン、顔黒の姉チャン!オジサンヲ莫迦ニスルナ!少シハ尊敬シロ!オバタリアンヤジベタリアンニ負ケテイラレルカ!モウ三花ホド人生ニハナヲ咲カセテヤルー!
(1999年3月10日発行 長崎保険医新聞 掲載)
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