近代科学が教えるように「死」は単に生物学的、物理的に無の状態になるだけだろうか?
「死」で人生がすべてが終わるとすると、あまりにも寂しい話ではないか?
第一にロマンがないし、何か生きる気力が削がれてしまうようだ。別に、宗教を信じろというのではない。精神科医師のキューブラー・ロスは、癌の末期患者のターミナル・ケアを通じて、いかにして人々が「死」を受容してゆくか「死ぬ時間」(読売新聞社)で述べている。その彼女が、日本での講演の中で、沢山の蘇生患者の話から「死後の世界」はあると話した。そして自分は「死」が楽しみなどと話しているのである。
物事を分析し、何でも解明してしまう立花隆氏は、「臨死体験」(文春文庫)を著している。その中で「死後の世界」を見たという臨死体験者は「死」に向かう脳内現象の一部として幻覚を見たとも考えられる。だが「死後の世界」を全く否定もできないと述べている。そして例外なく臨死体験者は「死」を恐れなくなり、とても「生きる」ことを大事にするようになるそうである。
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十七世紀のフランスの科学者プルーズ・パスカルは宗教思想家でもあった。彼の独創的な遺書「パンセ」の中で、「もし、人が死後の生命の存在を信じていたのに、実はそれが存在しなかったとしても、別に何も損したことにならない。しかし死後の生命が存在するにもかかわらず、それを信じなかったために手に入れ損なったとしたら、もう取り返しがつかない。その人は永久にすべてを失うことになる」第三章(儲けについて)で述べている。
結局、この手の議論は物質だけの一元論か?精神と物質の二元論かに帰着してしまうのだが、宗教心の薄い私でも、「死」を考える時、神や絶対的なものを考えてしまう。何故なら宇宙の始まりも世界を作っている物質の最小単位も宇宙の一番端も何も分からないのだから。私達人間は、宇宙や自然の一部であって、永遠の時の流れの中のホンノ一瞬を自分なりに輝くために、ここに居るのではないか。
「誕生」と「死」は永遠という時空の節なのだと考えたい。「死」を新しい旅立ちと考えたい。「死」は恐れなくともよいのである(少しは恐いけど!!)。
その限られた、残された生の中で「自分とは何か?」「どんな役割を持って自分は生かされているのか?」「自分は何がしたいのか?」と考えてみる。そうすれば、むやみやたらに周囲を気にしたり、逆に自分の欲望だけを追いかけたり、また結果ばかり気にすることは、生命の浪費しかならないことが分かる。
「医者が思わず涙を流したいのちの話」石川恭三著(青春文庫)の中で、先生は自分の命が五年で終わると考えてみると、違った自分が見えていると書いている。まさに「死」は、自分をいつわりなく写す「鏡」なのである。
人間一生、酒一升、まだあるつもりが、もう終わり。
(2000年7月10日発行 長崎保険医新聞 掲載)
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